知っている人は知っている!KDDIの筆頭株主はトヨタ自動車と京セラであること。これは有名なんですかね?
- KDDI系列会社で働いたことがある
- 日本の産業について詳しい方
ならご存知かと思います。
今回の記事では、ひとつの産業ができるまでに、裏で様々な産業が陰で動いている。
そんなお話をKDDIとトヨタの関係でお話をしていきます。
はじめに
0.トヨタ・京セラの出資比率
え?本当?と思うかもしれないので、まずはコチラのデータを見てください。
http://www.kddi.com/corporate/ir/stock-rating/stock/
2015年9月に発表された、KDDIの持ち株比率です。
持ち株比率が、京セラとトヨタ自動車がダントツトップになっています。
1.KDDIの成り立ち・歴史
まずKDDIの概要について簡単に解説していきます。
KDDI=KDDとDDIとIDOの共同設立
KDDとDDIとIDOの3社が、2000年10月に合併して設立された企業がKDDIなのです。
トヨタが参画した電気通信事業3社のうち、国際通信のIDCは順調に相互接続国を伸ばすなど、事業領域を拡大した。業績も、1992(平成4)年度に営業損益が黒字に転換し、1998年度には累積損失を一掃するに至った。しかし、国内長距離通信のTWJと、移動体通信のIDOは、それぞれの事情から苦戦を強いられた。両社は事業資金を捻出するために増資を重ね、その結果、トヨタの出資比率は過半数に達し、1998年には連結子会社となった。
www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter2/section4/item3_a.html
- KDD(国際電信電話):1953年に旧逓信省・電電公社から分離・設立された特殊会社
- DDI(第二電電):京セラが主体となって、1984年に第二電電企画株式会社として設立
- IDO(日本移動通信):トヨタから支援を受けた設立された企業
元・国際電話サービスを提供しているお国の事業
KDDIは、元々国際電話のサービスを専門に提供している事業でした。民間ではなく、お国の事業。
経営が上手くいかず赤字になったタイミングで、電電公社から分離をして、特殊法人になりました。
これが「第二電電」ですね。
京セラは、その第二電鉄に出資をして筆頭株主になりました。
その後、日本移動通信になりました。
移動通信=携帯電話
トヨタ自動車は、この移動通信(携帯電話)の事業に出資をしたのです。
3社が合併をする形で、今のKDDIがあるのです。
では、なぜトヨタ自動車と京セラがKDDIを出資したのか?
その理由について掘り下げて考えていきましょう。
2.トヨタ・京セラが、KDDIに出資をした理由
先ほどお伝えしたのは1980年代のできごとです。この頃から、トヨタ自動車の経営陣は、あと10年したら携帯電話が爆発的にヒットする、と先を見越していたのでしょう。WiFiも技術しては当時から存在していたわけですかね。
車を売りたければ道路を作ればよい!と考え方は同じかもしれません。
携帯端末を売りたければ通信サービスを充実させればよい、
と考えたことが予想できます。
少し話を変えて、当時の時代背景についてお話ましょう。
2-1 1980年の時代背景
1980年代はかなり激動の時代でした。
共産主義→資本主義
1980年代の大きな変化
- ソビエト連邦の終焉
- アメリカとソ連の冷戦が終結する
- NTTが国営から民営化になる
ソビエト連邦の崩壊により、共産主義国家よりも資本主義国家のほうが望ましいと世論形成が行われました。
- 民間企業に競争をさせて、サービスレベルを上げる
- 結果として国全体の生産性が向上する
- 私たちの文化や生活が豊かになる!
いわゆる「神の見えざる手」ですね。
このセオリーに従い、政府は、自分たちで管理をしていたインフラ産業を手放します。
今の民営化と自由経済ですね
民営化と自由経済
以下、引用です。
米国では1984年に米AT&T社が分割された。日本では1985年に日本電信電話公社(電電公社)が民営化され、関連グループに改組される。いずれも、通信サービス市場への自由競争導入が狙いである。
この時期、1980年代の半ばは、世界史的な転換期である。ゴルパチョフ氏がソビエト連邦(ソ連)の最高指導者となったのは1985年だった。それは東西冷戦の「終わりの始まり」を象徴する。1世紀近くをかけた実験の末、全体主義計画経済は、自由主義市場経済に敗れ去ろうとしていた。おりから米国はレーガン大統領、英国はサッチャー首相、日本は中曽根首相が政権を担う。いずれも新自由主義的な経済政策をとる。通信自由化は、その一環である。日本では国鉄民営化が、中曽根内閣のもとで実施された。
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20131209/321363/?rt=nocnt
「国際化」「自由競争主義」がビックキーワードでした。
日本(国家)も、事業運営は民間に任せて、市場原理にゆだねたほうがよいと判断をしたのでしょう。
2-2 NTTすらも民営化を要請された
当時の日本では政府と経済が一体となって国家の産業を支えている時代でした。
JRやNTTなどのインフラ産業は国営だったのです。
ところが、80年代からは資本主義経済は政府主導ではなく、企業主導で運営されるようになりました。
電気通信事業の世界的な自由化の流れのなかで、日本でも1985(昭和60)年4月に電気通信制度改革が実施され、電気通信分野の自由化が始まった。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/
ここでのキーワードは、「自由化」ですね。
経済を自由化にすることで、市場競争が生まれて、サービスが充実すると国家は考えたのです。
さて、トヨタ自動車の話に移っていきます。
3.トヨタ自動車の戦略と挫折
さて、1980年代にトヨタは何を考えていたでしょうか?
1980年代の日本の自動車産業は、高い性能を誇り、米国のビッグスリーを下しました。
世界のトヨタやホンダが生まれた時代でもありました。
世界レベルで自動車市場のリーダーになったトヨタにとっての次の手は他分野に進出をして自動車事業の基盤を強化するところでした。
トヨタでは1980年代初頭から総合企画室と東京支社調査部が連携しながら、情報通信事業について調査・検討を進め、同分野への積極的な参入を図った。新規事業分野への進出という事業拡張の意図だけでなく、自動車への情報通信技術の適用、トヨタグループ内での高度な情報通信サービスの利用など、自動車事業をより強靭にする相乗効果を期待しての参入方針であった。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/
最近になって、IoT(Internet of Thing)が近年のビッグキーワードになりましたが、当時のトヨタ自動車や京セラの経営陣たちは、この世界観を先遣していたのでしょうか?
知っている人がいたら教えて下さい。
3-1 海外に進出をする日本メーカーにアメリカ政府がブチ切れる
トヨタ、本田、日産など日系自動車メーカーは、一足早く米国に進出していました。
1980年代は、日本で車を製造して米国に輸出をして売り出していました。
ところが、ここで問題が発生しました。
「おい!日本の自動車メーカーよ!お前たちがドンドンと車を運んでくるから、アメリカのビッグスリーがヒーヒーだよ!どうしてくれるんだ?輸出させねーぞ。」とアメリカ政府がブチ切れました。
それほど米国にとって日本の自動車メーカーは脅威だったのです。
「いやー、言いたいことは解るけれど、資本主義だから仕方なくないっすか?」と日本の自動車産業も反撃です。
調平和的交渉
- 「じゃあ、こうしよう!日本の自動車業界よ。アメリカに工場を造れ。」
- 「アメリカ人たちを工場で働かせて、現地の雇用を増やしてくれ。」
- 「そうすれば、車を運ぶ輸送費が浮くだろ?まさにWin-Winなわけだ」
「OK!」で決着がつきました。
まさに、アメリカ政府と日本の自動車産業にとってはWinWinの交渉といえるでしょう。
結果として、アメリカのビッグスリーや日本の輸出産業は、痛手を被るわけですが、そんなのは関係ありません。
フェデラル(連邦政府)の利益は、アメリカ国内で雇用が増えて、結果として税金が取れることですから。
3-2 海外に進出をしたものの、そこには驚きの光景が
アメリカに工場を立てるまでは良かったものの、日本の町工場とは違い、ものすごくハイテクで近代的な設備だったことに驚きました。
ハイテクなアメリカの工場
- 工場内にパソコンが置いてあるのは当たり前
- 堅牢なセキュリティー対策が万全にされている
- 社内にはケーブル・ネットが飛び交っている
- 従業員同士がPCメールで業務連絡をしている
2000年代に入って、日本でも個人情報の問題やセキュリティーの必要性が高まりましたが、米国ではその10年、20年前から社内のIT化やシステム・セキュリティー化が国家レベルで導入されていました。
ここら辺はNASAや軍事産業の影響なのでしょう。
「数年後ヤバくねーか?アメリカのテクノロジーは、スゲーぞ。政府もバックアップしているし。ITが本格的に流行ったら、日本の産業は外資にのっとられんぞ!」
こんな感じで、トヨタ自動車をはじめとする日本の産業はIT化を目指すわけです。
4.NTTは動いてくれなかった?
- トヨタ社員「NTTさん!大変です。米国では既にインターネットや通信技術をビジネスで活用する動きがあります。」
- NTT社員「はぁ?だから何だ!そんなのは国に相談しろ!今こっちは固定電話の加入権の販売で忙しんだ!」
- トヨタ社員「いや・・・だからですね。国家の政策として、もっとインターネットをですね・・・」
- NTT社員「だーかーら、インターネットが何だか知らんが、とりあえず電話線が先だろ」
- トヨタ社員「は?固定電話バカだろ!?そんなもんスマートフォンが普及したら消えるだろ!」
- NTT社員「スマートフォン?何それオイシイの?とりあえず、一軒一軒回るのに忙しいんだ。車を売ってくれ!」
- トヨタ社員「ヘイ!毎度あり。燃費のいい車を売りますぜ。」
と、アメリカの並みの通信技術を開発することを依頼しにいくのですが、NTTは全く対応してくれません。
それどころか、車を売ってくれと要求される始末です。
いいお客さんです。(笑)
4-1 当時のNTTの取り組み
「一家に1台固定電話」でした。
以下の記事からも伺えます。引用します。
日本では電話事業は1890年に始まった。「誰の家にも電話がある」という状態が実現するのは1980年ごろである。それは、ほとんど100年をかけた大事業だった。
「誰の家にも電話がある」状態が実現したとき、電気通信業界は一変する。1985年4月1日に、日本電信電話公社が日本電信電話株式会社 (略称はNTTのまま) に衣替えする。このNTT本体は持ち株会社で、国内電話サービスはNTT東日本とNTT西日本が受け持つ。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/
当時、NTTは、電話回線をひとつでも多くの家庭に普及させることで忙して、他のことに手が回らなかったのでしょう。
10年先のことを考えている余裕がありません。
実際に100年後の世界は、「誰の家にも電話がある」状態は実現しました。
その20年後にインターネットの時代が到来しました。
4-2 NTT一社独占の時代と終焉
インターネットが本格的に家庭に普及したのは、1990年代後半でした。
ウィンドウズ95が発売された時代でした。
1990年代半ばは、まだ固定電話の時代であり、NTTが回線の市場を独占しておりました。
4-3 電話の自由化
回線の自由化が法律で策定されたのはその10~15年先の2004年です。
この頃から、KDDIが固定電話市場に参入できるようになりました。
メタルプラス・・・懐かしい。
それまでのNTTは、家庭に1台電話を設置しておけば、基本料金で5000円、長電話をする家庭であれば10,000円以上の売り上げが見込める時代でもありました。
寡占市場ではなく完全に独占市場です。
競争優位とはどういう状態か?独占市場と寡占市場の違い
競争戦略やブルーオーシャン戦略の目的は、結局のところ「寡占状態を作り上げる」の一言に集約されるのではないでしょうか?今回は、この寡占という言葉に特化して、お話をしていきたいと思います。 では、まず寡占 ...
そんな時代に、トヨタや京セラがいくらインターネットや通信技術の重要性を訴えても、相手にしてもらえませんでした。
5.思い通りになる会社が必要
よって、KDDIが誕生しました。
今でこそ華やかなKDDIですが、設立当時はトヨタや京セラの通信技術を支援する子会社だったのです。もしくは、研究開発費の支援を受ける条件で、通信技術の開発と提供をする研究機関ですかね。
もちろん研究機関だとお金には習いので、民間企業でも携帯電話の販売ができるようになったタイミングでKDDIとして事業化をしたわけです。
まとめるとこんな感じですね。
- トヨタ→KDDIに支援をして自社の通信技術を高める
- 京セラ→KDDIの回線を使って携帯端末を販売する
- KDDI→両者から支援を受けて安定したビジネスを築く
http://www.meti.go.jp/committee/sankoushin/seizou/pdf/002_02_02.pdf
経済産業省がまとめた自動車産業の推移
整理して近々まとめますので今しばらくお待ちください。