参照元:Honda | Honda図書館
経営学の教科書では、何かと有名なネタなので、この場で紹介をしたいと思います。1950年代にホンダが米国にバイクを販売していたお話です。
最初にネタばらしをしておくと、ホンダのバイク販売から学べることは、「この戦略を実行すれば、このような結果になる」と言ったものではありません。色々と勉強にはなりますが、今回の事例は全くもって再現性がありません。
はじめに
1.ホンダが経営学に与えた影響
ミンツバーグさんが戦略サファリでそこら辺を詳しく説明していたので、引用しながら紹介していきます。
以前、英国政府はボストンコンサルティンググループ(BCG)を起用し、日本企業、なかでもホンダが、アメリカのオートバイ市場でイギリスの競合を劇的に凌駕したのはなぜなのかを説明するように依頼した。(1959年当時、英国のオートバイは輸入市場の49%を占めていた。しかし、1966年代には、ホンダだけでも市場全体の63%がシェアを獲得した)。
ミンツバーグ・戦略サファリより
1975年に提出されたBCGの報告書は、いかにもBCGらしいものであり、古典的な合理的ポジショニングを示した。そのためにその報告書は、ハーバード大学やその他で作成された周知のケーススタディの基本となり、規範となる戦略的行動を学生たちに教えるために、アメリカで多くのビジネススクールで使われるようになった。
ミンツバーグ・戦略サファリより
引用文の中で、「古典的な合理的なポジショニング」という言葉がありましたね。
経験曲線
高い市場占有率
中流階級に向けた低コスト化の実現
と、まるで事前から計画し尽くされていた戦略として紹介されていたわけです。
もちろん、学んだ学生たち、本ケースをみながら「うぁ~、ホンダって計算高いんだな~」と関心を示しました。
2.計画的な戦略ではなく体当たりプレイ
ホンダマネージャーの説明 アンソニー・エイソスとともに『ジャパニーズマネジメント-日本の経営に学ぶ-』を著わしたリチャード・パスカルは、この説をの全てに疑問を抱き、日本へ飛んで、アメリカ市場の参集を実行したマネージャーたちに取材をした。実際、彼らはBCGの説明とはかなり異なっていた。
「実は、アメリカで売れるかどうかやってみよう、という考え以外に特に戦略があったわけではないのです。」ホンダは、日本企業の海外における競争を支援することで知られている大蔵省より、まず外貨割り当て規制を受けなければならなかった。「大蔵省は、我々に対して懐疑的でしたと」と。ドル投資することを認めたが、現金はわずか11万ドルだけだった!
「本田氏は特に250CCと305CCのオートバイにっ自信を持っていました」
ミンツバーグ・戦略サファリより
アメリカにバイクを売り出そうと思ったはじめの頃は、当時のアメリカ人が愛用しているようなハーレーを販売する気バリバリでした。
ところが、この計画は見事に崩れました。アメリカ人は、オートバイを長距離、高スピードで乗るため、ホンダのオートバイが壊れ始めたのです。
160キロで荒れ地を走るような設計じゃありませんからね。
おまけに、1959年はオートバイシーンは終わったときでした。
戦略は失敗したのです。
ところが、その8ヶ月後におもしろいことが起こります。
当時、米国で暮らしていた本田氏が買い物用に使っていた50ccバイクが、アメリカ人から注目を集めました。今でこそ小型バイクは誰もがのりますが、当時の米国では珍しかったのでしょう。存在しませんでしたから。
さて、そこから・・・ある日、シアーズのバイヤーから電話があり、そのバイクを導入することを強く勧められました。
もちろん、はじめは断りました。
アメリカの男性が好むようなカッコいいバイクのイメージが崩れるからです
ところが、大型バイクの販売でコケてしまって、もう背に腹を変えられません。
シアーズの交渉に応じて50CCのバイクを販売することにしたのです。
あとはご存じのとおりです。
日本で大成功したのだからアメリカでも大成功するだろう!なんて、
これっぽっちも考えていませんでした。
ちなみに、この広告のデザインをしたのも、UCLAの大学生でした。